LOGIN翌朝、緊急の軍議が招集された。
大広間ではなく、地図の広げられた作戦室に限られた顔ぶれが集まっていた。
アルヴィス様、私、シェラ、ガイル様、そして軍務を預かる将官が数名。
壁に掛けられた大陸地図には、南部国境を示す赤い印が、いくつも書き加えられていた。
灯りとりの窓から差し込む朝の光さえ、いつもより硬い印象を室内に与えていた。
「南部国境の民兵、その数、さらに増えております」
将官の一人が地図の一点を指しながら報告した。
「現時点で、およそ二千。武装の質から見て正規の教会軍ではなく、志願兵と思われますが」
「二千という数字は」
アルヴィス様が問うた。
「国境の守備隊だけでは支えきれません。増援が必要かと」
シェラが静かに、けれどはっきりと口を開いた。
「殿下。増援だけでは後手に回るだけでございます」
「シェラ、それは」
私が言いかけると、彼女は続けた。
「今、動いているのは
翌日、シェラとゼルが計画を携えて戻ってきた。応接の間の卓に、地図が広げられる。帝都周辺の街道と、いくつかの村落が細かく書き込まれていた。書き込みの丁寧さから、二人が徹夜で検討を重ねたことが伝わってきた。窓から差し込む朝の光が、地図の上に描かれた無数の線を、くっきりと浮かび上がらせていた。「――お待たせいたしました」シェラが深く一礼した。「囮となる場所と時機について、ゼルと共に検討いたしました」私は身を乗り出した。「聞かせて」「まず前提から」ゼルが地図の上に指を置いた。「あの方が動くのは、魔王様に危険が及んだとき、あるいはそう見える状況が生まれたときです。過去の事件は、すべてその条件に沿っております」「つまり、わたくしが本当に危険な場所へ向かえばいい」「ええ。ですが」ゼルは私を見た。「本当に危険であってはなりません。あくまで彼がそう錯覚する状況を作る必要がございます」「具体的には」私が問うと、シェラが地図の一点を指した。「南部国境近く、この街道です。民兵の集結地から、さほど遠くありません」「そんなところへ行けと」「護衛は最小限に見せます。実際には離れた場所に、殿下と精鋭を配置し、いつでも駆けつけられるようにいたします」「危険を演出する、ということね」「はい」シェラははっきりと頷いた。「街道を供の少ない馬車で通ります。民兵に近い場所を、あえて選びます。彼がこれまでの行動パターン通りであれば、必ず気づくはずです」私は地図をじっと見つめた。羊皮紙の上に描かれた街道の線が、今、自分が実際に歩む道になろうとしていた。「もし気づかなかったら」「その場合は、別の手を考えます」ゼルが静かに答えた。「ですが、わたくしの分析では可能性は高いと見ております。あの方はこれまでも、魔王様の動向を常に把
軍議から二日が過ぎた。その間にも、南部国境の民兵はさらに数を増していた。ガイル様の報告によれば、既に三千を超えているという。宮の空気は、目に見えて張り詰めていた。侍女たちの足音も心なしか慌ただしく、廊下ですれ違う文官たちの表情にも、以前にはなかった硬さが滲んでいた。私は自室の窓辺で、その報告書を何度も読み返していた。紙の端が、指の熱で、わずかに湿り気を帯びていた。何度読んでも、書かれている数字は変わらない。それでも、私は、その数字の向こうにある何かを、見落としていないか確かめずにはいられなかった。先手を打つべきか。待つべきか。シェラの言葉も、アルヴィス様の言葉も、どちらも間違っていなかった。答えの出ない問いを前に、ただ立ち尽くしているだけでは何も変わらない。ゼルの言葉が耳の奥で蘇った。時間は無限にはない。私はふと気づいた。この膠着を生んでいるものは何だろう。民兵の集結。それは教会の敵意そのものだ。けれど、その敵意をこれほどまでに深めているのは。失踪。暴露。略奪。すべて、ネフィリスの独断が引き金になっている。もし彼が動くたびに教会がこちらを疑い、そのたびに緊張が積み重なっているのだとしたら。彼を止めることは、ただ一人を止めることではない。この、二つに引き裂かれた選択肢そのものを変える可能性がある。私はその考えに思い至った瞬間、はっきりと悟った。見つけられないなら待つしかない。これまで、そう思っていた。けれど本当にそうだろうか。見つけられないのではなく、彼が見つかりたくないだけなら。彼が出てきたくなる状況を、こちらから作ればいい。私は立ち上がった。窓の外、夕暮れの光が庭を橙色に染めていた。雲の輪郭が、燃えるような赤
翌朝、緊急の軍議が招集された。大広間ではなく、地図の広げられた作戦室に限られた顔ぶれが集まっていた。アルヴィス様、私、シェラ、ガイル様、そして軍務を預かる将官が数名。壁に掛けられた大陸地図には、南部国境を示す赤い印が、いくつも書き加えられていた。灯りとりの窓から差し込む朝の光さえ、いつもより硬い印象を室内に与えていた。「南部国境の民兵、その数、さらに増えております」将官の一人が地図の一点を指しながら報告した。「現時点で、およそ二千。武装の質から見て正規の教会軍ではなく、志願兵と思われますが」「二千という数字は」アルヴィス様が問うた。「国境の守備隊だけでは支えきれません。増援が必要かと」シェラが静かに、けれどはっきりと口を開いた。「殿下。増援だけでは後手に回るだけでございます」「シェラ、それは」私が言いかけると、彼女は続けた。「今、動いているのは、あくまで民兵です。正規軍ではございません。今のうちに、こちらから、その集結地を叩けば、被害を最小限に抑えられます」作戦室に緊張が走った。将官たちの視線が、シェラと私の間を、忙しなく行き来した。「先手を、打てと」私が問うと、シェラはまっすぐに私を見た。「はい」「けれど、それでは」「お嬢様」シェラの声に、これまでにない強さがあった。「相手が本格的に攻め込んでからでは遅うございます。今叩けば犠牲は少なく済みます。待てば、それだけ犠牲は増えていきます」「ガイル、お前の見解は」アルヴィス様が問うた。「――シェラ殿に、同意いたします」ガイル様は苦しげに答えた。「軍事的合理性から言えば、先制するのが最も損害の少ない選択です。感情論を挟む余地はございません」私は拳を強く握った。爪が、手のひらに食い込むのが分かった。「わたくしたちが先
ゼルの分析から、三日が過ぎた。その間、新たな事件は起きなかった。まるで嵐の前の静けさのようだった。宮の日常は、表面上、いつもと変わらず流れていた。庭の花は咲き誇り、廊下を行き交う侍女たちの足取りも軽やかだった。私はその沈黙を、不気味に感じていた。何も起きないことが、かえって、次に来るものの大きさを予感させた。夜、眠りにつく前、決まって、あの見えない気配のことを考えてしまう自分がいた。「殿下。教会より、正式な書状が届きました」朝議の場でガイル様が、緊張した面持ちで一通の書状を差し出した。封蝋には聖教会の紋章が、深く鮮やかに刻まれていた。アルヴィス様がそれを開いた。読み進めるにつれて、彼の表情が次第に硬くなっていく。「――何と」「教会は正式に、帝国を非難する立場を取るとのことだ」彼は書状を円卓の上に置いた。「一連の事件を、帝国による組織的な工作と断定している」私は思わず立ち上がった。「わたくしたちは、何もしていません」「分かっている」アルヴィス様の声は静かだったが、その奥に抑えた怒りがあった。「だが教会にとっては証拠など不要だ。都合の良い物語があれば、それで十分なのだろう」「具体的には、どのような」私が問うと、ガイル様が書状の続きを読み上げた。「聖教会は、アーデルハイド王国、南方の複数の国々に対し、帝国との通商を見直すよう正式に要請している。また」彼は一拍置いた。「聖女ミナ様の名において、帝国を『闇に満ちた国』と断ずる神託が下されたと、布告されております」朝議の間に、重い沈黙が落ちた。円卓を囲む閣僚たちの誰もが、言葉を失っているようだった。「神託」私はその言葉を繰り返した。舌の上で転がすように、何度も。それが、あまりに現実味を欠いた言葉に思えたからだった。「ミナが、
翌日、私はゼルを呼び寄せることにした。「見つけられないなら、探し方を変えるしかない」アルヴィス様の提案だった。「ゼルの分析力なら、何か見えるかもしれない」昼過ぎ、ゼルが宮を訪れた。今日は納品の日ではなかったが、事情を伝えると育ての親は快く送り出してくれたという。馬車を降りたときの彼の表情には、いつもの子どもらしい笑顔ではなく、すでに引き締まった何かが宿っていた。「これまでの事件を、すべて見せていただけますか」ゼルは応接の間の卓に着くなり、そう言った。声も姿勢も既に軍師のものだった。私はガイル様がまとめた報告書の束を、彼の前に置いた。失踪者の一覧。ヴァイセン伯爵家の醜聞。物資輸送馬車の一件。すべてを順に並べた。ゼルはそれらを一枚ずつ丁寧に読み進めていった。指先が紙面を辿る速さは、五歳児のものとは思えないほど正確だった。しばらくして、彼は顔を上げた。「魔王様。一つ伺ってもよろしいでしょうか」「何かしら」「この一連の事件で、命を落とした者は」「――ひとりもいないわ」私は答えた。「怪我人も報告されていない。眠らされた者、資産を暴かれた者、物資を奪われた者はいるけれど」「なるほど」ゼルは報告書の一枚を指で示した。「失踪させられた三人は、いずれも聖女ミナ様への監視や、教会内部の情報統制に深く関わっていた者たちです」「監視や、統制」「つまり」ゼルはまっすぐに私を見た。「魔王様の素性、あるいは、教会が魔王様を追い詰めるために使う情報を握っていた可能性のある者たちです」私は息を呑んだ。「ヴァイセン伯爵の不正暴露も同じでございます」ゼルは続けた。「あの家は婚約発表の場で、態度を保留していた家のひとつ。教会側に転ぶ可能性が最も高い家
「シェラ。あの人に、こちらから連絡を取る方法はないの」翌朝、私は真っ先にシェラを訪ねた。「以前、あなたの私室に書状が置かれたでしょう。同じ方法で、こちらから返事を出せないかしら」シェラは少し考えてから、慎重に答えた。「試す価値はございます。ですが、期待はなさらぬよう」私はその日のうちに、丁寧に言葉を選びながら、返信をしたためた。『ネフィリス様へ。あなたの気持ちは嬉しく思います。けれど、あなたのやり方は多くの人を危険に晒しています。どうか一度、話をさせてください』その文を、シェラの私室の、以前書状が置かれていたのと同じ場所に置いた。羊皮紙の端が、机の木目に沿ってわずかに反っているのを、何度も指で押さえ直した。一晩、待った。眠りは浅く、何度も目が覚めた。そのたび、窓の外の暗闇に、誰かの気配を探してしまう自分がいた。*翌朝、文はそのままの場所に、そのままの状態で残っていた。「読まれた形跡すら、ございません」シェラが書状を手に取りながら言った。その声に、隠しきれない落胆があった。「他に、方法は」私が問うと、シェラは首を振った。「あの者は、こちらから接触される可能性を、常に警戒しております。同じ手を、二度は使わないでしょう」私は、机の上の書状を、もう一度手に取った。インクの色は変わらず鮮やかで、それがかえって、届かなかった事実を際立たせているように見えた。書き直すべきだろうか、と考えた。もっと違う言葉があったのではないか。もっと彼──『彼女』かもしれないが──の心に届く、何か別の言い回しが。けれど、考えれば考えるほど、正解が分からなくなっていった。相手の顔も声も知らないまま、言葉だけで気持ちを届けようとすることの難しさを、私は初めて実感していた。*私は諦めなかった。その日の午後、宮の情報網を総動員することにした。







